妻とテレビを見ていて、「あれから20年かー。もう20年になるのか・・・。」と会話しました。
私も妻も1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災を経験しています。
震災から20年というタイミングでたまたまブログを書いているのも何かの縁ということで今回は20年前1月17日の事を思い出して書いてみようと思います。
当時住んでいたのは被害の少なかった地域ですのであまりショッキングな内容は出てきませんが震災にトラウマのある方は読まれない方が良いかも知れません。
では本題です。
1995年1月17日5時46分の少し前。
部屋は真っ暗。いつも目が覚めない時間に突然目が覚めた。
一瞬の間を置いて遠くの方からカタカタカタと揺れるような音が聞こえてきた。
カタカタカタという音が大きくなるのに比例して揺れがだんだん大きくなっていった。
あるタイミングで、ガタガタガタ!と揺れが一層激しくなった。
両親の寝室から母が私の部屋までやってきて「○○(下の名前)!大丈夫ー!」と聞きに来たが大きな揺れにより立っているのが困難なのかひゃーとかきゃーとか悲鳴を上げていた。
ガタガタと揺れる音と共にどこかからガシャーンとかパリーンとか物が壊れる音が聞こえてくる。
私は「お母さんあぶないよ!」と言ったがどうしようもなく、布団を被ってうずくまって耐えていた。
かなり長い揺れが終わり、1分くらい揺れたように感じた。
(※実際は十数秒だったらしい。)
止まったと思ってから完全に止まるまでの間、最後にゆっくりと2・3回揺れたと思う。
そしてまた静かな暗闇になった。
母に大丈夫?と声をかけ、ひとまず下の階にある居間に集まろうという事になった。
頭まで被っていたふとんをめくって顔を出すと、ブラウン管のテレビがテレビ台から半分くらいこちら側に出っ張っていて、テレビ台のすぐ横で寝ていた私の顔の上に落ちかけになっている事がわかり、恐怖を感じた。
実際もうすこし揺れていたら頭の上にブラウン管テレビが直撃していただろう。
下の階に母・私・弟が集まった。
ん?父がいない。
母が「おとうさーん!大丈夫ー?」
と聞くと「大丈夫やー!」と2階から声がした。
「降りて来てー。」と言って父を待つことに。
すると2階から父のぎゃーという悲鳴が聞こえた。
痛い痛いと言って降りてくる父。
両親の寝室に置いてある人形ケースが床に落ち、ガラスの破片が足の裏に刺さったらしく少し流血していた。
そして家族が集まってテレビをつけて地震の速報を見ようということに。
テレビが映らない。
どうやら停電しているようである。
弟が自分の部屋から何かのおまけで貰ったおもちゃみたいなポータブルテレビを持って来た。
アンテナを立てて、ダイアルを回してチャンネルを調整するタイプのもので、砂嵐の画面から徐々に映像が見えてくる。音声もノイズ交じりでアナウンサーが何か言っていた。
見えた映像にはどこかの街が上空から撮影されているもので、暗闇の中あちこちからオレンジ色の炎が上がっていた。
えー!大変な事になってる!と家族全員で言い合った。
そして家族全員で外が明るくなるのを待った。
そこからはいろいろ忘れてしまっているが、学校へ行こうと学校までの道のりを歩いて行ったのを覚えている。
学校までの道中に酒屋があって辺り一面に酒の匂いが漂っていたのを覚えている。
確か学校は休みだったような気がする。
これが1995年1月17日の私の出来事である。
最後に
もうすでに忘れている事が多いです。やはりこういう事は書き残しておいた方がいいかもしれません。
それと、これ以来気を付けている事があります。
寝ている周辺に倒れてきそうなものや、顔や体に落ちて来て大けがしそうなものは置かない、寝室にはできるだけ物は置かないという事です。
皆さんの参考となれば幸いです。
神戸市のサイトに震災の写真がオープンデータで公開されています。
トップの画像もそちらから使用させて頂きました。
今週のお題「今だから言えること」